どんより
こんばんは。
今日もとても蒸し暑い1日でした。
ここ1週間ほど体調が優れず、今日は少し快復しました。
(女性特有のものですので心配は要りません。)
こう蒸し暑いと、なかなか前向きな気持ちになれませんが・・・
日々の生活はこなしています。
今月は娘の誕生日もあり、どんな感じにしようかと色々考えていますが、
娘もしっかりとした主張があり、悩むところです。
ケーキは「チョコレートケーキ」に決まっているそうです。
夕飯は「ピザ屋さんに行きたい」と、こちらも決めているそうです。
プレゼントは2回ほどトイザらスを見て回りましたが、どうしても欲しいというものは無く「ゲーム機がいいかな」と・・・
そうなんです、娘はゲームが大好きで、トイザらスに行っても、イトーヨーカドーに行っても、真っ先にゲームの所に行きます。
ですが、まだゲーム機を買い与えるのは早いかなと思い、プレゼントを悩むところです。
少し早いですが、小学生になったら持たせたいと考えていて、キッズ携帯もいいかなと思っています。
最近は物が溢れているので、逆に迷ってしまうのかもしれませんね。
今夜、少し読書が出来たので、気持ちが前向きになりました。
明日からまた頑張りたいと思います。
無印のクッションが半額になっていたので、デニム柄と2つ買いました。
(小さなおじさんが、テレビを見るのにちょうど良い大きさのようです)
※ニトリの机や、無印の家具などが届いているのですが、なかなか記事に出来ません。いつの日か片付けて記事にしますので、気長にお待ちください。
読んで頂いてありがとうございました。
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ランドセル決定
こんばんは。
今日は晴れて蒸し暑くなりましたね。
さて、先日ブログの記事に書いた「ランドセル」ですが、土曜日に展示会を見てきました。
娘がCMを見て気になっていた「フィットちゃん」という、ランドセル専門メーカーです。
会場に着くと、色とりどりのランドセルがあり、娘はテンションがかなり上がりました。
とりあえず手当たり次第に気になる色を背負っては写真を撮らされました(笑)
白・ピンク・紺・茶・紫・薄紫・赤・オレンジ・・・・
それぞれに表面の刺繍なども異なり・・・・
息子も少しだけ
そして、娘が欲しいと言っていた、暗闇でランドセルの淵全体が光るモデルを発見し、更にテンションアップします。
その中でもやはり前から欲しいと言っていた薄紫色(ラベンダー)が気になる様子。
さらに、刺繍や内装がきれいなモデルに釘付け・・・
「私、これにする!」
相変わらず決めるのは早い娘です。
ただ今回は、6年間使うものですし、まだ「フィットちゃん」しか見ていません。
しかも娘が手にしているものは結構なお値段です。
「いやいや、まだ他にも見てみようよ。」と促してみます。
「うーん。でもこれがいいかな。」と娘。
「それにさ、ランドセル全体が光らなくてもいいと思うんだよね。光るやつで薄紫色って限定しちゃうと、3つしかないよ。」とせめて他のモデルも見てみようと促してみます。
「いや!光るのがいいの!」
・・・・・・・・・・・・。
とりあえず、夫と息子が疲れてきていましたし(男性陣はあまり興味がない様子)お昼を食べる事にしました。
お昼を食べながら「もう少し他も見てから決める」という事で話がついたので、午後から「イトーヨーカドー」を見に行きました。
午前中に見た「フィットちゃん」のヨーカドーモデルがありました。
アイスのサーティワンとのコラボのモデルがあり、とても可愛かったです。
娘も背負ってみたりしましたが、どれもいまひとつの様子。
とりあえずその日は少しおもちゃを見て退散しました。
その日の夜に色々と他の工房系などの物を調べました。
いくつか近くで展示会があるところもあり、全部まわってみよう!スケジュールを立てました。
ですが、良く考えてみると、工房系のランドセルはシンプルでとても素敵ですが、娘が好きなデザインはありません。
恐らく見ても結果は見えています。
娘の性格ですと、最初に気に入ったものからブレる事はありません。
「背負うのは娘」と言うのを思い出し、やはり「フィットちゃん」にしようと思いました。
「フィットちゃん」はさすがランドセル専門メーカーだけの事はあり、改めてよくHPを見てみると、本当によく作られていることも分かりました。
そして今朝娘に伝えると、満面の笑みで「やったあー!」と嬉しそうにしています。
昨日と同じ場所で展示会が今日も開催されていましたので、もう1度背負わせて念押しして決めました。
娘は本当に嬉しそうで「あそこで写真撮りたい!」と言い出したので撮りました。
きっとこんな事も振り返るといい思い出になりそうですね。
今回のランドセル購入で感じたこと。
理想と現実は異なるということです。
私はシンプルな物を好みますし、6年間使うものですから成長を見越して、工房系の落ち着いた皮のランドセルがいいかなと思っていました。
赤・ブラウンなど。
ですが、最近は娘が選んだうす紫色(ラベンダー)がかなり人気とのこと。
ひとつには、少し前まで放送していた「プリンセスソフィア」の影響もあるようです(ソフィアのドレスが紫色でした)
展示会でも、娘が背負っていたランドセルは「次に貸して下さい」と言われたり、見ようとすると誰かが背負っていたりしました。
私としてはかなり妥協(ほぼ100%妥協)しましたが、娘の喜ぶ姿を見ると、これで良かったのかなと思いました。
時代の流れに逆らわずに、現実と向き合って子育てをしていこうと、改めて感じました。
今日はお姉ちゃんと寝ました。。。
※余談ですが、今日は夫が仕事でしたので、事後承諾になってしまいましたが先ほど報告しました。そうしたらホッとした様子が伝わってきました(笑)おそらく、またずっとランドセル選びにつき合わされるのが気が重かったのだと思います。
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最近のランドセル事情
こんばんは。
今日も小雨模様で蒸し暑い1日でした。
午前中は娘の幼稚園で「歯磨き指導」があり、年長の親御さんも(歯が生え変わる時期なので)都合がつけば参加してくださいと言われていましたので、息子と一緒に行ってきました。
市の保健センターの方がいらして、パネルシアターや歯磨き指導などを行っていました。
娘は後ろからでしたが、真面目に取り組んでいる様子が分かりました。
息子は一緒に歯磨きをして、たまに姉の席に近寄ったりと、楽しそうに過ごしていました。
お昼寝をしてからお迎えに行き(定番ですね)雨が上がってきたので、そのまま耳鼻科に行きました。
娘はだいぶ鼻水や咳が治まっていはいますが、いつも鼻声なのが気になっていました。
ちょうど息子の薬もなくなるので、一緒に連れて行きました。
娘の様子を相談すると「5歳過ぎているので、アレルギー検査をしてみますか?」と勧められました。
私がスギ・ブタクサ・ネコなどのアレルギーがあるので、お願いしてみることにしました。
急に血液検査になってしまったので、娘には理由を簡単に説明して了解を得ました。
針を刺す瞬間は泣きましたが、先生が上手で手早く採血して下さったので良かったです。
結局、基本の8項目に、イヌ・ネコの項目を追加して、血液型検査(自費)もお願いしました。
いつも書類の血液型の欄が空欄でしたので、いつか機会があれば調べてみたいと思っていました。
結果は来週です。
相変わらず息子は並べています(笑)
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さて、表題のランドセルの話です。
娘は来年の春に小学校に入学予定です。
私の考えとしては、少し早いけど、夏休みに百貨店や展示会があれば行ってみて、秋か冬ぐらいには決めておこう。年内には手元にあると安心だ。
ただ、娘の好きな「プリキュア」というアニメのCMに「フィットちゃん」というランドセルが流れるらしく、ずっと気にしていましたので、そのカタログだけは取り寄せて手元にありました(まだ未開封でした)
そして木曜日にお友達数人と公園に行く事になり、何気なくランドセルの話題をお母さん達4.5人と話していましたが、目からうろこでした。。。
「〇〇鞄の展示会行った?あれ○○○○○だったよね。」
「で、結局どこのやつに決めたの?」
「多分〇〇のにすると思う」
ガビーーーーーーーーーーーーーン(古いですが)
それから改めて皆さんに聞いてみると
・人気の工房系ランドセルは5.6月でだいたい完売してしまう
・4月ぐらいから、近くに来ていた展示会には足を運んでいた
・もうだいたい買うものは決めている(もしくは買った)
などなど、みなさん本当にいろいろ詳しくて、びっくりしてしまいました。
そして遅ればせながら(笑)早速夜になって、ネットでランドセル事情を調べてみました。
確かに、人気の工房で取扱っているランドセルは完売もしくは、品薄状態でした。
展示会などはとっくに終わっていて、カタログなどはもう送付終了でした。
出遅れてしまったので、かなり焦ってしまい
今からでも買える所は・・・
実物を見てなくてもネットで買ってももいいか、口コミもいいし・・・
あれ、この工房のころ色なら残ってる!買っちゃうか・・・
遠方の実店舗まで行けば何とか買えるかな・・・
時間もないし、1日数件はしごして回るかな・・・
などなどなど、娘の気持ちを無視した方向に考えが向いてしまっていました。
何時間もパソコンと睨めっこして「ハッ!」と気付きました。
「背負うのは娘だった・・・まずは娘に見せて気に入ったもの、背負ってみた感じも大切。」
それから、何軒か近くで展示会があるお店もあったので、カタログを取り寄せました。
もう完売のところは、縁が無かったと思って諦めることに。
息子もいますし、何軒もはしごしても頭が混乱してしまうかと思い、無理をせず1日1ヶ所に。
結局、前から決めていた明日1件と、7月にもう1件、8月にもう1件の展示会と百貨店を見て決めたいと思います。
背負うのは娘!
これを忘れないように見てきたいと思います。
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父の事③
「誤嚥性肺炎」を起こしてから5日目の金曜日の夜、私たちが寝ている部屋に母が来て「お父さんの呼吸状態がおかしいから、病院から電話がかかってきて、すぐに来てくれって」といいに来ました。
たまたま夫も帰宅している曜日と時間でしたので、夫の運転で病院に向かいました。
(後から考えると、父は夫の帰宅を待っていたのかなとも思いました)
夫が車を止めている間に、母と子供たちと病室に行くと、既に心臓マッサージをしていました。
私は息子を抱っこ紐で抱っこしながら「じいちゃん!じいちゃん!」と耳元で呼びかけましたが全く反応しません。
日付が変わり土曜日になっていました。
2015.06.27 69歳で旅立ちました。
その日の夕方は、夕焼けがとても綺麗だった事を鮮明に覚えています。
そして火葬までの間は自宅に連れて帰り、家族で過ごしました。
娘はもうすぐ4歳という年齢でしたが、父が亡くなった事を全て理解はしていないと感じました。
(分かっている部分もあったのだとは思いますが。)
父が寝ているいつものベットに乗って
「じいちゃん、もう少し端に寄ってよ!」と言って一緒に寝てしまったり。
娘の中に少しでも父の記憶が残っていてくれる事を祈るばかりです。
父が亡くなったばかりの頃は、心の中で母をずいぶん責めました。
恐らく気持ちの持って行き場が無かったのだと思います。
そして、自分自身の事も責めました。
母が留守をしていると分かっていたのに、父が病院から帰宅するのを待って様子を見に行かなかった事。
夫と相談して、父の体調を考え二世帯にしたのに、何も意味がなかった…
亡くなった年は、そんな事を自問自答していました。
次の年(昨年)になると、少し気持ちが和らいできました。
母の取った行動は納得が出来ませんが、幼い娘を抱えて父が病気になり暫く働けず、その先もずっと病気がちで、母はずいぶん苦労をしてきました。
もう十分だったのかなとも思えるようになって来ました。
(たまにフラッシュバックのように、怒りがこみ上げてきますが)
そして、もう一つ救われたのが、私の脳外科の執刀医から言われた事でした。
「透析を受けているという事は、すでに1つ延命治療を選択しているんだよね。
そして他にもたくさん病気を抱えていた。
もし仮に早く運ばれて治療をしたとしても、予後はあまり良いものではなかったと思うよ。」
といった様な内容でした。
それからも、気持ちが上がったり下がったりで苦しい日々でしたが、今年に入ってずいぶん落ち着いてきました。
そんな時に、子供たちの笑顔に本当に救われました。
父も家族みんなで一緒に暮らすことが出来て、孫の顔も見られましたし、幸せだったと思います。
そうやって時を重ねて、穏やかな気持ちになっていけるといいなと思います。
思い出す父の姿はいつも優しいものばかりです。
私がくも膜下出血になったときに、病院の床に水たまりになるぐらい泣いていたと聞かされました。
そんな父の気持ちを考えると、私が先に逝かなくて本当に良かったと思いました。
じいちゃん、お疲れ様でした。
長々と、お付き合いいただいてありがとうございました。
※病状や経過につきましては、個人のものですので、全ての方にあてはまる訳ではありません
父の事②
倒れて病院に運ばれた次の日から、病院と家との往復の生活が始まりました。
娘は倒れた日だけは幼稚園を休ませましたが、土日以外は普通に登園させて、16時や17時まで幼稚園のお預かりをお願いしていました。
父は数日間、集中治療室にいましたので、その間は母や夫と交代で会いに行きました。
その後は集中治療室の隣の脳卒中センターの中にある、一般病棟に移動したので、ここでは子供たちも入ることが出来ました。
リハビリも始めていて、子供たちの顔を見ると嬉しそうに手を上げたりしていました。
ただ、言葉も話せませんし、体も半分動きません、食事も出来ない中で、この先どうなるんだろう?という不安は常にありました。
そして一般病棟に移動して1週間目の朝、携帯に病院から着信がありました。
急いで行ってみると「誤嚥性肺炎」を起こしてしまったとの事でした。
私が着いたときには少し落ち着いていました。
母も後から来たので、医師からの説明を聞きました。
医師からは今後病状が悪化した時の「延命措置」をどうするか?という選択を迫られました。
一通り説明をきいたあと、母と病院内のカフェで話し合いました。
・延命措置をした場合(人工呼吸器)恐らくずっと外せないだろう
・透析をしていて人工呼吸器をつけているとなると、受け入れ可能な病院があってもかなり遠方になる
・この先、口から物を食べられるようになる可能性はきわめて低いので、いずれ胃ろうになるだろう
上記の点を踏まえてご相談くださいといわれました。
普通に考えれば、延命措置はしない選択になると思います。
ただ、決定する立場になってみると、本当に迷ってしまいました。
でも最後には母が「延命措置はやめよう」「父の回復にかけよう」と決めて医師につたえました。
それからは、リハビリも出来なくなり、酸素マスクをして苦しそうに横たわる日々でした。
私が父の存命中に最期に病室を訪れたのは、「誤嚥性肺炎」を起こしてから4日後の事でした。
その日、病室に行くと「抵抗力が弱っているので、感染を起こしている。普通の人なら問題ない菌だが、病室に入るときにはマスクや防護服?(割烹着の様なもの)などを着るように」と言われました。
私が全てを身にまとい病室に入ると父は驚いたような表情を見せました。
それなので「大丈夫、たいした事は無いんだけどね、じいちゃんは(子どもが生まれてから父の事をじいちゃんと呼んでいました)今病気になっちゃってるから感染しないように着てるだけだからね」
と明るく伝えて、少し話しかけたりしました。ですが、暫くすると父は険しい表情で動くほうの手を扉の方に向けて「かえれー」と言いはじめました。
言語障害がありましたので、はっきりとは言えませんでしたが、言葉は伝わりました。
恐らく、私や子供たちへの感染を心配したのだと思います。
(感染していたので、子供たちは入室を控えていました)
何度か「大丈夫なんだよ」と伝えましたが「かえれー」と言うばかり。
結局押しに負けて「また来るからね」と伝えて病室を後にしました。
そして父と交わした最後の言葉になってしまいました。
なんとも父らしい・・・
母はその日と次の日の夕方にも1人で病室を訪れていました。
そしてそれが父が存命中に家族が面会する最後になってしまいました。
長くなりましたので、次に続きます。
父の事①
父の事を書こうと思いますが、詳しく掘り下げてしまうとかなり長文になってしまいますので
割愛しながら書いていきたいと思います。
父は長い間、人工透析を受けていました。
私が2歳ぐらいの頃から透析を始めて、夜はいつも週3回ほど留守にしていました。
ですが仕事もしていましたし、休みの日には色々な場所に連れて行ってくれて、無理はしていたのかもしれませんが、小さい頃の父は病気というイメージはまったくありませんでした。
それでも長く続けるうちにだんだんと心臓の機能が弱くなってきてしまい、亡くなる10年少し前にペースメーカを入れました。そしてさらに「再生不良性貧血」も発症しました。
さらに年齢も重ねて、透析も長くなってきてあちこちの血管も詰まってきていましたし、いろいろな検査を受けてはいましたが、血液をサラサラにしすぎてしまうと他に害が出てしまったりで、晩年はあまり活動的とはいえませんでした。
それでも自営業でしたので、普通に毎朝スーツを着てお店には出ていました。
亡くなる前の年に、言動や行動が少しおかしい時がありました。
車を運転していて、急に道が分からなくなったり・・・
透析を受けている病院の方からも連絡があり、言動がおかしいので神経内科の受診を勧められました。
母と受診して検査を受けましたが、その際には特別な問題はありませんでした。
また、足が痛くて歩くのが本当に遅くなっていたのもあり、良く転んでいました。
父の場合転んでしまうと貧血が進んでしまうため、そのたびに病院に行って診てもらったり検査をしたりの繰り返しでした。
亡くなる前の年の6月ぐらいから、昼間に透析を変わって欲しいと病院側に言われて、私が送り迎えをしていました。
ですが当時私は妊娠中だったのと、切迫早産になってしまったので、それからはタクシーを使うようにしていました。
そしていつの間にかまた夜の透析に変えていました。
表向きの理由としては「透析から帰ってくると疲れて眠くなるので、夜眠れなくなってしまう。」
ですが本当は、いつまでも現役で仕事をしているというプライドがあったのだと思います。
仕事を1番に考えてきた父らしいと思いました。
父が倒れた日は、透析から帰宅して少し経ってからのようです。
ようですというのは、たまたまその日は母が旅行に出かけていて不在でした。
私はその日は朝から息子を連れて病院などに行ったので、夜は疲れて寝落ちしてしまいました。
この日、朝から家に居る選択をすれば、日中父ともっと会話が出来たのにと悔やまれます。
娘を迎えに行って帰宅すると、ちょうど父が透析に向かうところでした。
小脇にセカンドバックを抱えて、とびきりの笑顔で手を上げて行ってくるよ!の合図をしてバス亭に向うところでした。
父は言葉はありませんでしたが、手を上げたジェスチャーで分かりましたので、
私は「行くの!気をつけてね」と言いました。
これが倒れる前の元気な父を見る最後でした。
父が倒れた日の夜は、母が旅行から戻る予定の日でしたが、飛行機のフライトを最終便にしたので23時過ぎの帰宅になってしまいました。
母が23時過ぎに帰宅すると父は倒れていたそうです。
ですが、まさか脳梗塞などとは思わずに、いつものように転倒してそのまま寝てしまったんだろうと思い、抱えてベットに戻して一緒に朝まで寝てしまっていました。
これは、本当に納得できなくて(今でも)どうしてすぐに救急車を呼ぶなり、私に相談してくれなかったんだろうと。
しかも私が病気になってからわが家のルールで「何かあったらすぐに病院!」と話し合っていたのです。
母曰く、旅行で疲れていたし、まさかそんな病気なんて全く思わなかったそうです。
私が朝起きて下に下りると、母は普通に仕事に行くところでした。
ただ「お父さんがね、全然何も話さなくて、昨日帰ったら床に倒れていてね」といい始めて、父の様子を見たときに、これは頭の関係だ!と直感で分かりました。
母に仕事をキャンセルするようにキツク伝えて、救急車を呼ぶように伝えました。
程なくして救急車が来ましたが、父が担架で運ばれていくときに「このまま生きて戻ってこれるだろうか・・・」と思った記憶があります。
結局、父は私が頭の手術をして、子供たちを出産したのと同じ病院に運ばれることになりました。
私は子供たちを連れて車で追いかけました。
病院では、発症から時間も経ってしまっているので、急いで治療をする様子はありませんでした。
少し待って神経内科の担当医師から、父の病状の説明がありました。
中大脳動脈が詰まってしまっていて、言語障害・失語・片麻痺などの症状が出ているという事でした。
その後、夫にも連絡して来てもらい、午後から再度医師の説明を受けましたが、やはり状況はとても厳しいものでした。
その日は集中治療室に入っていたので、子どもたちが入れないため、3人で交代に病室に入って父の顔を見て話しかけたりしました。
父は疲れた様子でしたが、子供たちの話をすると笑顔になりました。
やはり孫は可愛かったのだと思います。
その日はそのまま帰宅して、それからどう過ごしたか殆ど覚えていません。
ただ、子供たちがいるので(当時娘はもうすぐ4歳・息子は5ヶ月)日常生活はしたのだと思います。
長くなりますので、次に続きます。
三回忌
こんばんは。
今日も蒸し暑い1日でした。
午前中は、母が休みだったので、娘の宿泊保育のパジャマなどを買いに行きました。
お昼は前から気になっていた、小さな中華屋さんで食べました。
お店は小さいですが、息子にも優しく接して下さり、味もとても美味しかったです。
お昼寝のあと、娘を迎えにいってから、娘のスイミングに行きました。
前回同様、とても楽しそうにやっていたので良かったです。
オムツが暑いというので、ブリーフにしてみました(笑)
今年の夏にオムツが外れるといいのですが、ちょっと難しそうです。
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やや暗い記事になります
今日は父の三回忌でした。
母と相談して、命日には悲しくなるので特別な事は止めようと話しています。
ですので特別な事は何もしていません。
亡くなって1年目よりも今年のほうが少し気持ちが落ち着いています。
ですがたまに色々と思い出して、胸が締め付けられるような時もあります。
やはりまだ自分の中では消化できていないいろいろな事があって、
でも仕方が無かったんだという気持ちと、行ったりきたりしているんだと思います。
気持ちの区切りをつける意味でも、父の亡くなった経緯を少し書いてみたいと思います。
長くなりますので、次の記事にしたいとおもいます。
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